2011年9月アーカイブ

試練

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ピアノという楽器について考え抜いた3日間。

先週、主人こと山本裕康のチェロの小品集の録音をしてきた。


私の好きなベーゼンドルファーがあると聞き、楽しみにでかけたが、

待っていたのは全然言うことを聞かないピアノだった。

自分の好きな音が出ない。深い音も響きのある音色も出ない。

今までどちらかというと楽器に慣れるのが早いと思っていたのだが、

そのかすかな自信すら完全に打ちのめされた。


どうしたらいいんだろう。

この「自由がきかない」状態は久しぶりだった。

これがコンサートなら仕方がない、最善をつくそうとスパッと考え方を変えられるのだが、

録音となるとそうはいかなかった。

弾いても弾いてもあまり鳴ってこずにベーゼン独特の愛すべき深い音がこない。


その時に思った。音を聞いて弾かずに感触で弾こう。

もうこの状況は変えられない。やるしかない。そしたら音を聞いていちいち落ち込んだり、

こんなはずじゃないとイライラしたりせずに「いつもならこのタッチ」の感覚でいこう。


不思議なものでそう思った途端に音も少し変わってきた。

それでも悪戦苦闘の初日だった。


2日目になり急遽私の調律師さんが来てくれた。(ここは決まった調律師しか基本的に入れない)

唯一の理解者が来てくれたように嬉しかった。

なぜなら楽器の調子の悪さなど、本質の所ではピアニスト以外わかってくれない。

ピアニストにとって調律師さんがどれほど大切で味方なのかを思い知った。


3日目になってようやく少しだけピアノとお友達になった。

彼の(彼女かな?)頑なな心にほんの少し風が入った。


これだけピアノをどういう風に弾いたらいいのかを考えた3日間はないだろう。

どういうタッチで弾けばいいのだろう、とひたすら考えた。

多分私の人生で一番指先が敏感になっていたのではないだろうか。

結果はどうあれ、ものすごく勉強させられた。自分の限界をはるかに越えた気がする。

もちろん願わくば最高の状態で録音したかった。

でも、これも神様が今の私に必要だと与えてくれたことだと思う。

人生に無駄な事は一つもない。


編集されてきて聞くのは本当に怖いけれど、チェロはとても素晴らしい響きだし、

いい曲ばかり入っている。

ピアノという楽器の可能性、そしてピアニストのタッチの可能性は無限大であるほずだ。

気持ちばかりが先走っては決していい音は出ない。

私のピアニストとしても人間としてもまだまだの青二才ということを感じながら、

もしかしたらこの悪条件が私をぎりぎりのところで、より考えさせてくれたのかもしれない。



「置いておく」という時間

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この夏から色々アップグレードに取り組んできたつまりだったが、

ここにきて停滞している。

なかなか思うようにいかずに歯がゆい毎日。

なんとなく、身体の色々なことがスムーズにいっていないというか、うまく力が伝わっていないというか、

無理しているというか、すんなりいっていない。

方向としては間違っていないつもりなのだが、こういう時期が一番辛い。


そんなときの気分転換は何と言っても食べる事だ。

おいしいものを食べると心はうきうきするし、まぁこんな時期もあるさと思える。

私はお気に入りのレストランに行くのも大好きだが、料理をするのも好きだ。

もちろん毎日毎日面倒だなと思うときもあるけれど、基本的に食べるのが好きなので、

どうせ食べるなら美味しく食べたいと思う。

こうすると美味しいよと聞いたらすぐにでも実行してみないと気が済まない。

だから友人を家に呼んでみんなでワイワイ食べるのも大好きだ。

そんな時もいつもと同じ大皿料理で足りなきゃまた作るというくらいの適当さなのだがこれが楽しい。


料理をしているとよく思う事だが、おいしく食べるためのノウハウがある。

難しいことではない。

なるべく時間をかけない方が美味しいものや、時間をかけることで美味しくなるもの、

シンプルが美味しいものや、手を加える事で美味しくなるもの、

それぞれの美味しくなるポイントを間違えないということだと思う。


不思議なのは「置いておく事で美味しくなる」ものがあるということだ。

煮込みとか色んな味付けがはいるものは絶対そう。

急いじゃいけない。ただただ置いておけばとんがっていた味がまろやかになったり、

充分味がしみ込んだりする。

この「置いておく事」が料理をしていて学んだ大きなことだ。


だから、あわててはいけない。

すぐに味がしみ込まないからといって、どんどん味付けを足してしまうと大変なことになる。

あっさりでも「置いておく」ことで味が染みて美味しくなったり、

それぞれのスパイスの性格が強くて、とげとげしたそれぞれが主張が激しい感じでも、

「置いておく事」でだんだん味がまとまって、まろやかな感じになり、最後には独特のまとまった味になる。


きっと今のこの歯がゆい毎日も少し我慢して「置いておく」ことが必要だと言い聞かせる。

通らなければいけない過程なのだ。

じっと待っていると、きっと色んなものがつながってくる時がやってくるはずだ。



9月になった。

大好きな秋がもうそこまで来ているぞ!


ピーター・ゼルキン。

言わずとしれた大ピアニストのルドルフ・ゼルキンの息子であり、アドルフ・ブッシュの孫。

そんなサラブレッドの彼もヒッピーでベトナム反戦で長髪でサングラスの時期や演奏活動をあまりしない時期も会った。

そんな彼も今年で64歳。年齢も巨匠の粋に入ってきたが演奏は完全に巨匠だった。


前半の武満徹のフォー・アウェイで彼の美音がホール中に響き渡ったが次のベートーヴェンのソナタ31番では

音こそ美しいのだけれど、全体的にテンポ感が浮遊していてミスタッチも多くちょっとドキドキしながら聞いていた。この事に関しては未だになぜだか正直よくわからない。


というのも、後半のベートーヴェンのディアベッリ変奏曲になったら、最初の一音から生き生きと始まった。

お!何かが違うぞ。これはすごいぞという感じのワクワク感満載。

そして変奏曲が進んでいくにつれ、彼の音楽の深さに会場中が飲み込まれていった。

何よりも一音一音の美しさ!

全ての音が、本当に一音一音、あるべき姿で鳴らされていた。

ハーモニーでの説得力、リズムの楽しさ、楽譜のすべてが手に取るようにわかる。

「あるべき音」は楽譜が求めている音。自分の出したい音なんて傲慢だ!欲求なんて傲慢だ。

そう思わずにいられない演奏だった。

深い深い精神性。それが曲全体を覆っていて、私はまるで祈りのように聞いていた。


その音楽はベートーヴェンに対しての深い敬意と尊敬に満ちたものだった。

そこには微塵も傲慢さはない。

自分のうまさをひけらかす事もなく、派手さもなく、ただ深い祈りのみ。

研究と経験と人間性と才能と努力と音楽に対する敬愛と、それら全てが高い高い精神性となって

現れたようだった。


うちに帰って、すぐピアノに向かった。

一音一音が全てあるべき音を出しているのか。

自分が出したい音ではなく、この曲のこの音はどんな音を求められているのか。


全然だめだ。全然足りない。

そう思った。

今までこんな薄っぺらい音しか私は出していなかったのか?


8月の最後の日に、このタイミングでピーターを聞いた事に意味がある。

「あるべき姿の音」

秋の追求が始まる。



CD情報

諸田由里子 ピアノ・リサイタルII
ドビュッシー「版画」

2010年1月25日発売。
諸田由里子 ピアノ・リサイタルII
ドビュッシー「版画」イメージ
ショパン:ノクターン No.1Op.9-1 No.4 Op.15-1 遺作 マズルカ No.32 Op.50-3 モーツァルト:ピアノソナタ第13番 B-dur K.333 ドビュッシー:アラベスク 版画 月の光
WWCC-7633 ¥2,625(税込)


Profile


諸田由里子 Yuriko Morota
ピアニスト Pianist

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